morinosoyの日記

ライティングの練習も兼ねて、いろいろな記事を載せます。

映画『燃ゆる女の肖像』感想と劇中歌の歌詞についての備忘録。

 

2019年のカンヌ国際映画祭脚本賞クィア・パルム賞を受賞し、今年の12月4日からついに日本でも上映が開始されたフランス映画『燃ゆる女の肖像』を観てきた。

 

gaga.ne.jp

 

女女物語が大好きな私にとってとても楽しみにしていた映画なので、感想と劇中歌についての備忘録を。*微ネタバレあり

 

 

あらすじ

絵画を学ぶ女性達に指導をする女性が、いつの間にか置かれていた古い絵を見て動揺する。自身の作品であるそのタイトルを尋ねられ、一瞬の間を置いて答える。――「燃ゆる女の肖像」と。
映画の舞台は1770年、フランス・ブルターニュの孤島。女性画家マリアンヌが重い画材と共に海を渡るシーンから物語は始まる。屋敷につくと、娘・エロイーズの見合いの為の肖像画を依頼してきた伯爵夫人に、散歩の相手として娘に接し隠れて肖像画を完成させることを言いつけられる。エロイーズは結婚を拒んでおり、以前雇った画家には決して顔を見せなかったからだ。召使のソフィから、元々姉の縁談のはずだったが彼女が死に、修道院に入っていたエロイーズに矛先が向いたことを知らされる。
肖像画を完成させたマリアンヌはエロイーズに真実を告げて完成作を見せるが、「この絵は私に似ていません」と言われ、マリアンヌは作品の顔を潰してしまう。描きなおすと言うが夫人に追い出されそうになる彼女に、意外にもエロイーズがモデルになることを申し出る。夫人が戻る五日後までに描き上げることを指示され……。

 

観た感想

肖像画を描くためにエロイーズを気付かれないように見つめるマリアンヌ。人を描くとき、特に動く対象を捉えるために向けるまなざしは自然と熱のこもったものになる。その輪郭、質感、微細な特徴を焼き付けるために描き手は対象を奥底から求め、それはまさしく恋をしているかのようなものだと気付いた。音楽が劇中でほとんど使われないことや、撮り方から私はいつのまにかマリアンヌのようにエロイーズを、そしてエロイーズのようにマリアンヌを見つめていた。心から見つめる、というある種の快感を伴う行為を久しくしていなかったので映画が終わるまでこの感覚に浸れたのはとても嬉しかった。

夫人が不在の屋敷でマリアンヌ、エロイーズ、ソフィの三人がギリシャ神話のある物語りについてそれぞれの考えを述べるシーンがある。亡くなった愛妻ユリディスを現世に連れて帰ろうとしたオルフェは、なぜ振り返ってしまったのか。このシーンでは三人の違いが顕著に表れているが、エロイーズの「妻が振り返ってと頼んだのかも」という言葉が後に重要な場面に繋がり、観るものに余韻を残す

マリアンヌは画家として初めからエロイーズを“見て”いたが、エロイーズもまたマリアンヌと最初に会った時から「私を見て」と表し続けていたのではないだろうか。初対面の散歩で一度も振り返らずに崖の縁まで走ったり、崖の縁ぎりぎりを歩いてみせたり、果ては「泳いだことがない」と話した後に「海へ入ります」と服を脱いで入水したり、焚火の向こうから見つめ服に火がついていることを見せたり。

見つめるマリアンヌの視線を体験しながら、「私を見て」と内から叫ぶように表すエロイーズを見る。焚火の熱でゆらゆらと揺れるエロイーズのあの表情ったら。三島由紀夫の小説の有名な一節、「その火を飛び越してこい」が頭に浮かんだが、まさしくそのシーンのすぐ後マリアンヌとエロイーズは互いを求めあう。


この焚火の、島の女たちの集会で歌われるオリジナル曲「La Jeune Fille en Feu」はスタッフロールでも流され、とても印象に残ったので歌詞を調べてみた。

 

youtu.be

 

劇中歌の歌詞について

作曲家Para Oneを中心に作られ、脚本・監督のCéline Sciammaが作詞したこの曲はラテン語「Non possunt fugere」と「nos resurgemus」の二つのフレーズだけで構成されている。安易にGoogle翻訳にかけてみると、「飛べない」「私たちは上昇します」と出た。「fugere」だけを調べると「逃げる」を意味する単語らしく、「Fugere non possunt=逃げられない」「nos resurgemus=上昇する」だろうと見当がついた。エロイーズの置かれた状況や恋に落ちること、その他の面でもこの映画を表すのに合っているようにも思えるが、そんな意味を示す歌を女性だけの集まりのあの場で歌うか?と疑問に思いさらに調べると、監督のインタビューで説明されている記事を見つけた。

 

“I wrote the lyrics in Latin. They’re saying, ‘fugere non possum,’ which means ‘they come fly,'” said Sciamma. “It’s an adaptation of a sentence by [Friedrich] Nietzsche, who says basically, ‘The higher we soar, the smaller we appear to those who cannot fly.'” 

 

ここから、「Non possunt fugere=they come fly」という意味で書かれたことがわかる。監督はニーチェの格言から始め、それをGoogle翻訳でフランス語からラテン語に不完全に翻訳したらしい。英語から訳すと「高く舞い上がるほど飛べない人には小さく見える」。原文のドイツ語はもう私の手には負えないが、英語ともまた違った意味を含んでいるように感じる。

 

Du gehst über sie hinaus: aber je höher du steigst, um so kleiner sieht dich das Auge des Neides. Am meisten aber wird der Fliegende gehasst.

 

この監督のインタビュー記事以前の記事で作曲家のPara Oneが、監督はこのラテン語の翻訳を維持して意味に謎を持たせることを好んだ、と言ったとも述べられている。口語としては死語であるラテン語を使うことでいかようにも意味がとれるようにしているのだろう。
ラテン語の心得がある者があの場面を観たらどう感じるのか。炎を挟んで見つめ合う二人に、テンポよくだんだんと声が重なり響きを増す「逃げられない」、そして最高潮の後一拍おいてロングトーンで歌われる「上昇する」という歌詞…。

 

劇中で二曲しか音楽が使用されていないだけあって、音楽が印象的な映画だった。静かな劇場で一心に彼女たちを見つめていた心に驚くほど音楽はすっと沁みて離れない。マリアンヌやエロイーズと同じように、ヴィヴァルディの「夏」を聴くたびに彼女たちのことを思い出すのだろうな。

 

参考

www.indiewire.com

slate.com